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2017年5月20日に開幕するU-20ワールドカップ出場するサッカー日本代表。
今回はそのU-20日本代表監督の内山篤(うちやま あつし)さんについて気になり、内山篤監督の経歴や戦術、ヒゲと元ポジションについて調査してみました!
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内山篤(U-20日本代表監督)さんの経歴は?
内山篤(U-20日本代表監督)さんの現在の年齢は57歳。生年月日は1959年6月29日でした。
出身地はサッカーで有名な静岡県清水市(現在の静岡市清水区)です。
身長は167センチ、体重は60キロと小柄でした。
内山篤監督の選手時代の経歴ですが、大学は国士舘大学サッカー部で、卒業後の1983年に日本サッカーリーグ1部のヤマハ発動機(現在のジュビロ磐田)に入部。
ヤマハ発動機サッカー部では中心選手として、1987-88シーズンにはヤマハ発動機サッカー部の初めての日本サッカーリーグ優勝に貢献。
日本代表としても経歴があり、1986年ワールドカップ・メキシコ大会予選などの国際Aマッチ2試合に出場。
サッカー選手を引退した後は、指導者として2004年からジュビロ磐田ユースの監督に。
2004年の高円宮杯では準優勝を果たし、6人もの選手をトップチームに昇格。
また、日本サッカー協会公認S級ライセンスも取得。
2007年にはトップチームコーチ兼サテライト監督に就き、同年9月にはアジウソン監督の辞任を受けて、トップチーム監督に就任。
ですが、うまく結果を残せずに2008年8月28日に成績不振を理由に解任。
2013年からは若い世代の日本代表のコーチに就き、2014年にはU-19日本代表のコーチとしてU-19アジア選手権に参加。
本大会に出場できなかった鈴木政一監督辞任の後、2015年からU-19日本代表監督に就任。
2016年にU-19アジア選手権で準々決勝を見事に突破をし、10年ぶりとなるU-20FIFAワールドカップ出場へと導きました。
この経歴を見ますと、素晴らしい実績と、それとは逆に結果が振るわなかった時と両方を経験されている人なのですね。
個人的には、華々しい結果しか経験したことのない監督よりも、それとは反対の厳しい時代も経験されている監督の方が頼りになる気がします。
内山篤(U-20日本代表監督)さんの元ポジションは?
内山篤(U-20日本代表監督)さんの元ポジションですが、ミッドフィルダーです。
身長167センチ、体重60キロという小柄な体格でしたので、中盤のポジションに適性があったのでしょうね。
日本サッカーリーグ1部の時の内山篤さんのゴール数を見ると1シーズン20試合ぐらいに出場し、ゴールは2得点ぐらいですので、どちらかというと守備的な選手だったのではないのでしょうか。
ですが、アシスト数がわからなかったので、アシストが多い選手でポジションとして攻撃的な選手だった可能性もありますね。
内山篤(U-20日本代表監督)さんの性格は?
内山篤(U-20日本代表監督)さんの性格ですが、あまり詳しい情報がありませんでした。
ただ、試合中ベンチ前に仁王立ちして『シュートで終われぇ~!』『足を止めるなぁ~!』と怒鳴り散らしているので、きっと熱血漢監督です。
ゴールが決まれば大喜びし、選手がミスを犯せば頭を抱えて悔しがる。『試合中に興奮してしまって何を言っているのか、まったく分からない時がある』と内山監督の能力に疑問符をつけるサッカー関係者もいますが、熱い人であるのは間違いない気がします。普段も恐らく、熱い方である気がしますね。
特にアンダー世代のサッカー指導者は技術的な部分だけでなく、選手のメンタル面での成長も求められているかと思いますので。
内山篤(U-20日本代表監督)さんの戦術は?
内山篤(U-20日本代表監督)さんの戦術ですが、内山篤監督は2015年の最後のキャンプの時に、「戦術は、鈴木前監督時代の大枠を継承している。同じやり方で、今度こそアジアを抜けるというのが大目標である。」とコメントされています。
ですが、当然マイナーな変更は行われていて、その当時はオーソドックスな4-4-2システムは同じで、よりサイド攻撃をより強化しているのが内山ジャパンの特徴だそうです。
内山篤(U-20日本代表監督)さんのヒゲについて
内山篤(U-20日本代表監督)さんのお写真を拝見したときの印象が「ヒゲ」でした。
ヒゲをトレードマークにしているようで、内山篤監督の自らのサッカー教室の名前が「ひげウッチーサッカースクール」だったりします。ヒゲウッチーってユニークなネーミングですね(笑)
5大会ぶり9度目の出場となるU-20ワールドカップのサッカー日本代表チームのご活躍に期待ですね!
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